
『人を傷つけるようなことをしてはならない』
そんなこと、誰しも知っていることだと思います。
しかし、良心を持たない人というのは、案外近くに・多くいると感じるのは私だけでしょうか。
パワハラ大国、日本。自滅していく人は日本人に多い??
日本は、26か国中3番目にパワハラが多い『パワハラ大国』とも言われています。(※1)
私個人の感想ですが、実際に日本に帰国して以降、会社でもプライベートで出会った日本人は、
- 自己保身
- 承認欲求
- 怨念のような嫉妬心
これらの要素が強くあり、あらわにし、周囲の人を不快にする大人と出会う機会が多くあり、驚いています。

海外で出会った人達が全て善人だったとは言いませんが、日本人と言えば、まじめ、高い倫理観と道徳心を持った民族と思っていたのですが、過去に私がお会いした日本人の多くは、その”固定概念”から離れた人達でした。
※個人的に出会った人がよろしくない人達だっただけで、総じて日本人のことも日本のことも美しいと思っています。
結局は、『日本人だから(倫理観高い・道徳心がある)』といった考えは、ただの一個人の固定概念で、倫理観が高いか否かは、国の文化や育った環境が影響しつつも、根本的に、その人個人の人格だと私は思います。
日本の会社にはコンプライアンス窓口や人事部なんてありますが、驚くと思いますが、プライム企業・中小企業問わず、そのような窓口に相談しても、真剣に取り合わず、事件をなかったことのようにされることもあります。(※実体験です)
それは、被害者であるあなた(私)が、一社員にしかすぎず、加害者が、社長や役員、部長などとなると、その人が問題を起こし会社として処分してしまうと、事業や仕事が立ち行かなくなるから、加害者から処分できないという謎の忖度があるからです。
会社にとってリスクとなることを起こしている根源が、その会社の役員や上司だったなんて、愚の骨頂。
しかし、これからは倫理の時代です。
そんな忖度も通用されなくなり、そのようなことをする人は淘汰されていくのではないでしょうか。
『愚の骨頂』と呼ばれる人は、企業組織や上司だけではなく、お寺のお坊さんや、学校の先生といった『人の上に立つべき人間』にも、隣近所のおじさん、おばさんにもいます。
実際に、昨今のニュースを見ていますと、倫理・心を持たない言動により、社会から大きな批判をされた芸能人、そして立派な『肩書』を持った人が淘汰されるニュースを見聞きするようになってきていると思いませんか?
ただ自分が知らないだけで、ただ出会わないだけで、自分の欲や煩悩を貪るために人から奪ったり、傷つけたりする人は、身の回りにたくさんいると私は思います。
だから、自分自身を自分の人生を、幸せを守るためにも関わらない方がいい人を知り、選んでお付き合いをすることが重要なのです。
\こちらもぜひ参考に/
\関わらない方がいい人関わってしまい、苦しんでいる人におすすめの本/
※1参照元:President Woman、鈴木賢志、、2019-05-15『なぜ日本はハラスメント大国になったのか』
七人の侍の勘兵衛のことばに学ぶ自滅する人の特徴
黒澤明監督の名映画『七人の侍』の勘兵衛のことばに、こんな言葉があります。
人を守ってこそ自分を守れる。己のことばかり考えるやつは、己をも滅ぼすやつだ!
引用元:映画『七人の侍』より
人を傷つけるような人というのは、自分の私利私欲しか考えていない人が多い。
そのような人は、上記、勘兵衛の言葉のとおり”己のことばかり考えるやつ”であり、そして”己をも滅ぼすやつ”なのです。
人を傷つけるような人は、自己保身ばかりで、嘘をつき、己の言動を隠蔽し、他責にします。
『天知る地知る我知る人知る』という言葉があるように、嘘や隠蔽というのは、必ず世の明るみに出ることとなり、最後は自ら業を刈り取るようになるのです。
\こちらも参考に/
”己を滅ぼす”ことは業を刈り取ること
因果応報はあると私は思います。
嘘がいつかバレるように、己の利益のために善良な人へ悪事を働いた人というのは、いつの日か業を刈り取り自滅していくのが真理かと思います。
そのような自滅していく人を『反面教師』とおっしゃる人がいますが、個人的な感想ですが、『反面教師』にはならないと思います。(※『反面教師にする』ということは、あなたも自分自身の私利私欲のために人を傷つける要素や可能性があるからでしょうか?そんなことしない人は、そもそも人を傷つける人たちを『反面教師』にはしませんし、なりえない、そう思うのです)
欲・煩悩を貪り、私利私欲のために人を傷つけたりしない人々にとって、自滅していく人というのは『反面教師にならない』…では、何になるのか。
答えは『無』です。
あなたにとって『自滅していく人』というのは、『反面教師』でもなく、何者でもない『無』なのです。
『無』から学ぶことはなにもありません。
そんな者よりも、美しい人や美しい景色から学び、成長していく、もしくは自ら買って出たような努力を重ねた方がより深い学びを得られることになるでしょう。
『誰から何を学ぶか』
これを選択することも、人生と暮らしの質を高めるための重要な要素であり、その『誰か』は全て悪人から学ぶ必要性はないのです。
加害者から、事件から教えを乞う
よく『すべてのことに学びがあり、辛いことも自分の糧になる』的な言葉を耳にしますが、生半可ではない心の傷や体の傷を負った被害者が、加害者や加害者から受けた出来事から教えを乞うことは、仏教やスピリチュアルな観点からすれば『真理』なのかもしれません。
しかし、加害者から教えを乞う、受けた事件から教えを乞うということは、被害者にとっては、何度も同じ事件を体験するきっかにもなり、何度も心の傷を受けることとなり、たどり着くのは、自分を責めるか、相手を憎むことになるかのどちらかに転がりやすいように思います。
『相手を許す』こちらに転がる選択肢もありますが、生半可な傷を負ったわけではない被害者が加害者を許すというのは、その被害者は非常に霊格や人格の高い方でしょう。
加害者から教えを乞い、加害者を許し、霊格や人格を高め、この先を生きていき死んでゆくことが、仏教やスピリチュアルな観点から言えば『真理』だとか『魂の成長』だとか言うのでしょうが、現実を生きるのが人間(人間界)でもありますので、無理に相手を許すなどせず、苦しい傷を負い、許せない気持ちと憎しみでいっぱいになってしまうかと思いますが、できるだけ加害者を、先述した『無』の存在へと落とし込んでいくことで、苦しい日々をやり過ごすことができるのではないかと、私自身も模索しながらではありますが、そう思います。
\こちらもぜひご一読ください/