(※悪い種を蒔いた人にとって)因果応報の恐ろしさとは:
- いつ、どんな形・方法でどんな因果応報が返ってくるのか分からない
- 蒔いた種は必ず己で刈り取ることになっている
- 悪事を犯してから時間が経てば経つほど、特大のブーメランとなって返ってくる傾向にある
ということではないでしょうか。
\因果応報の特徴/
上記に記載した『因果応報の恐ろしさ』は、因果応報が始まる前の段階のもの。
では、実際に『因果応報』が本格的に返ってた段階では、どんな恐ろしい因果応報が待ち受けているのか、考えてみました。
因果応報の恐ろしさ➀:行った業は二度と消えない
前回のブログ記事『因果応報は必ずあるのか(実話含む)』では、因果応報の特徴について下記のように記しました。
- 因果応報の発生には時差があり、人により何十年と長い年月がかかることも
- 因果応報の発生のタイミングについては、本人でさえ知らない(神のみぞ知る)
- 因果応報は100%確実に発生するかについては「分からない」
上記の他、現世で『因果応報』が起らなかったとしても、生きている間も、亡くなった後も、確実に残りつづけるものが1つだけあります。
それは、あなたが「種を蒔いた事実」です。
別の言い方をすれば、あなたが『行った言動』です。
良い種・悪い種関係なく、「種を蒔いた事実」というのは、生きている間も・死後の世界へ行った後も、一生消すことができません。
『種を蒔いた事実(自分がとった言動)』というのは、それが悪行であろうが、善行であろうが「二度と消せない事実」として魂に刻み込まれていくものだと思います。
その『業』が現世で返ってこなかった場合、輪廻転生を経て、来世で業が返るのだと思います。
つまり、「種をまいた事実(消せない事実)」を持つこと自体が、来世の魂にとっての幸・不幸を分けるのものだと私は思っています。
今、被害者として苦しんでいるのは因果応報?
今世で被害者として苦しんでいる人は、今世または前世で蒔いた種を刈り取っている(i.e.,因果応報)のかもしれません。
そう考えると、長い年月をかけて、加害者と被害者というのは「お互い様」の状況になっているのかなと思います。
しかし、スピリチュアル観点で言えば、前世でも今世でも悪いことをしていなくても、被害者の気持ちを学ぶために、あえて苦労の人生を選んで生まれてきたライトワーカーと呼ばれる人もいるそうです。
そんなこと言われても、前世で悪いことしたから今世で因果応報を受けているのか、自分がライトワーカーだから故、悲惨な問題ばかりに出会うのか、判断つきませんよね。
そんな時は、霊視できる占い師に見ていただくのも手!
私自身、あまりにひどい被害を被ることが何十年と続いたので、何かの因縁か、過去世のカルマを背負っているのか霊視占いで観ていただいたことがありました。
色んな先生に視ていただいたのですが、どの先生からも私はライトワーカーだとおっしゃってくださいました。
ちなみに私がよく利用している霊視占いは、電話占いヴェルニ。
人生の転換期、深く悩んでしまった時などに利用しています。
因果応報の恐ろしさ➁:改心したときこそが、本当の地獄
私が思う最も恐ろしい因果応報とは:
『愛・優しさ・真理に触れたとき』に起こるのではないかと考えています。
例えば:
加害者が他人からの愛や優しさに触れ、真理を知り改心した際、反省や懺悔を通して、自分自身で蒔いた『二度と消せない事実』を改めて目の当たりにすることとなります。
その時加害者は、『周りの人は、こんなにも温かくて優しい目と手を私に向けてくれるのに、私はなぜ、あんなこと(※悪事)をしてしまったのだろう』と一生後悔し、苦しむのです。
どれだけ後悔しても、反省しても、過去、自分が蒔いてしまった悪事は『二度と消せない事実』。その『二度と消せない事実』と共に、人からのあたたかさに触れる度に、自分の行ってしまったことに後悔の念で苦しみながら、この先の人生を歩んでいくのです。
そして、反省をしているが故、苦しいが故、神仏にすがり生きていく…。
しかし、神仏にすがるということは「心」や「道徳」の”真理”に触れることですから、「二度と消せない事実」にさらに目を向けることになり、より強い後悔の念と懺悔に苦しむのではないでしょうか。
- 人の優しさや愛に触れたら苦しむ
- 道徳や倫理に触れ真理に目覚めたら、救われるどころか『なぜこんなことをしてしまったのだろうか』と苦しみが強くなる
これは最も恐ろしいことだと私は思うのです。
悪い種を蒔いた本人(加害者)は、懺悔に苦しむことで心の痛みを知り、人に優しくなることができるでしょう。
そして、周囲の人は「あの人は、心が入れ替わったようだ」と言うでしょう。
もし、本当に改心したのであれば、元加害者は周囲に優しくされればされるほど、そして人間の愛に触れれば触れるほど、『心』や『道徳』、『愛』といった”真理”に触れることで懺悔と後悔の念と共に、肉を引きちぎられるほどの苦しみを味わうかと思います。
そして、その苦しみに対し誰にも相談もできず(なぜなら、原因は”自業自得”ですから)、神仏にすがる他なく、そして、神仏にすがることで更に”真理”に触れることとなり、また、懺悔と後悔で更に苦しみながら生きていく、抜け出すことができないまるで地獄のような世界へ留まることになるのかもしれません。
加害者は、そこからさらに反省をして自分を変えていく行動に移していくのでしょう。
そこで許されるのか、救われるのかは、私にも加害者本人にも誰にも分かりません。
神のみぞ知る範囲かと思います。
『人の愛に触れ、人に優しくされると苦しむ』…これはとても悲しく寂しく辛いこと。真の反省をすればするほど、真理に目覚め人の心のあたたかさに触れるので、人のあたたかさに触れる度に苦しむ、これこそが最も恐ろしい因果応報ではないでしょうか。
今、人をいじめたり、金・地位・名誉を手に入れるために人を騙したり、貶め入れたり、奪ったり、見下したりした人を見ていると、心や道徳といった”真理”に触れれば触れる度に、自分の行った行動にうしろめたさや、肉を引きちぎられるほどの後悔の念と懺悔に長期間苦しむ、その権利をせっせと自らの意志で作り上げているように見えるのは私だけでしょうか。
うしろめたさ・自分に自信を持てない生き方はしたくない
一方、被害を受けた人はどうなるのか…。
被害者の中には、いまも『失った物は失ったまま』という方もいることでしょう。
(私自身も過去に様々な苦悩がありましたが、どこかで「やられ損」と感じている節もあります)
しかし被害者というのは、加害者と比べると、”真理”に触れた時に『うしろめたさ』を感じることはないと私は思います。
自分の生き方に『うしろめたさ』を感じない生き方ができること、それは自分が思っている以上に尊いこと、だと私は思います。
そして、真理や人の愛や優しさに触れると感謝や幸せの気持ちに包まれることも、とっても尊いことです。
自分の生き方に『うしろめたさ』を感じないこと、”真理”に触れると感謝や幸せの気持ちを感じられることは、輪廻転生を繰り返す魂にとっても、それはゆるぎない自信になっていると思います。
”真理”や人の優しさに触れた時、自身の行いにうしろめたさを感じたり、悔やみ懺悔で苦しむことがないこれが本当の幸せなことだろうと思いますし、その清さが、自分自身に大きな自信を与えてくれますし、周囲から信頼されたり、顔つきや人柄として表れるものではないかと思います。
皆さんは、真理、愛、優しさに触れた時、どんな気持ちになりますか?
\こちらの記事もぜひ参考にしてみて下さい/